- 2021.12.03
- 偉人と名所
佐久の偉人【市川 五郎兵衛】
江戸初期に高度な技術と様々な工夫を用い、私財を投じて原野だった佐久の地に用水を引いて新田を開発した人。
1 志すでに武に非ず、殖産興業にあり
市川一族は、甲斐国の武田信玄に仕えていた武士だったが、武田氏が滅び主を失った。
信濃の国と甲斐国の要所であった南牧の地を収める市川家を家臣にしたかった徳川家康は、父の真久(さねひさ)を江戸城に呼んだが、父は、代わりに22歳の五郎兵衛を江戸城に向かわせた。
家康の前で五郎兵衛は、「志すでに武に非ず、殖産興業にあり」と答えたため、家康の領土で土地の開発を認めるという朱印状を与えられた
その後南牧の地で、砥石の採掘で私財をためる
2 私財を投じて用水開拓
朱印状をあたえられ、約20年後、佐久の地で用水開拓を始めた。
湯川の水を引いた三河田用水を開拓し、三河田新田を開き、その後、常木用水の開拓で市村新田を開いた。
3 不毛の草原(矢島原)の開拓
矢島原の開拓に取り掛かる、始めは千曲川から取水しようと考えたが、川が土地よりも低かったため水をひくことができなかった。
水源を探すこと3年、ついに蓼科山の山中に水源(五斗水)を見つけ、岩下川に落とし、春日の湯沢川との合流地点でせき止め取水し、そこから堰(水路)を作り水をひき、片倉山を通すのに327mのトンネルを両方から掘り、矢島原まで水をひいてきた。
そこから矢島原一帯に水を流すために、村で最も高い所を通すために盛り土をしてその上に用水を流すという工夫もされた。
4 米どころ佐久に
当時の土木技術にしては高い水準で作られた五郎兵衛用水。その成功を見た佐久の人々は、その後、塩沢、八重原、御影などに堰を作り、佐久は米どころとなった。
(略歴)
1572 上州 南牧(現在の群馬県南牧村)武士として生まれる
1593 徳川家康から士官の誘いを断り、鉱山開発・新田開発をしてもよろしいという 「朱印状」をもらい、鉱山開発をはじめる
1615~1623頃 三河田用水・常木用水開発
1626 小諸藩から「開発許可状」をもらい、五郎兵衛新田の開発に取り掛かる
1631 五郎兵衛用水完成
1642 小諸藩から150石の土地を褒美領としてあたえられる
2018 世界かんがい施設遺産に登録
(関連リンク)五郎兵衛記念館 | 佐久市ホームページ
1 志すでに武に非ず、殖産興業にあり
市川一族は、甲斐国の武田信玄に仕えていた武士だったが、武田氏が滅び主を失った。
信濃の国と甲斐国の要所であった南牧の地を収める市川家を家臣にしたかった徳川家康は、父の真久(さねひさ)を江戸城に呼んだが、父は、代わりに22歳の五郎兵衛を江戸城に向かわせた。
家康の前で五郎兵衛は、「志すでに武に非ず、殖産興業にあり」と答えたため、家康の領土で土地の開発を認めるという朱印状を与えられた
その後南牧の地で、砥石の採掘で私財をためる
2 私財を投じて用水開拓
朱印状をあたえられ、約20年後、佐久の地で用水開拓を始めた。
湯川の水を引いた三河田用水を開拓し、三河田新田を開き、その後、常木用水の開拓で市村新田を開いた。
3 不毛の草原(矢島原)の開拓
矢島原の開拓に取り掛かる、始めは千曲川から取水しようと考えたが、川が土地よりも低かったため水をひくことができなかった。
水源を探すこと3年、ついに蓼科山の山中に水源(五斗水)を見つけ、岩下川に落とし、春日の湯沢川との合流地点でせき止め取水し、そこから堰(水路)を作り水をひき、片倉山を通すのに327mのトンネルを両方から掘り、矢島原まで水をひいてきた。
そこから矢島原一帯に水を流すために、村で最も高い所を通すために盛り土をしてその上に用水を流すという工夫もされた。
4 米どころ佐久に
当時の土木技術にしては高い水準で作られた五郎兵衛用水。その成功を見た佐久の人々は、その後、塩沢、八重原、御影などに堰を作り、佐久は米どころとなった。
(略歴)
1572 上州 南牧(現在の群馬県南牧村)武士として生まれる
1593 徳川家康から士官の誘いを断り、鉱山開発・新田開発をしてもよろしいという 「朱印状」をもらい、鉱山開発をはじめる
1615~1623頃 三河田用水・常木用水開発
1626 小諸藩から「開発許可状」をもらい、五郎兵衛新田の開発に取り掛かる
1631 五郎兵衛用水完成
1642 小諸藩から150石の土地を褒美領としてあたえられる
2018 世界かんがい施設遺産に登録
(関連リンク)五郎兵衛記念館 | 佐久市ホームページ