佐久の偉人【神津 藤平】

農林畜産業や銀行経営、発電に関わり、長野電鉄の創設や志賀高原の観光開発など信州の経済発展に尽した実業家。

1 薬用人参の栽培(祖父孝太郎が佐久で初めて薬用人参の栽培を始めた)
東信地方の特産物となり農家の収入を増加させる
信州人参同業組合設立 同初代組合長

2 佐久地方に電灯を初めてともす
  長野電灯の取締役就任後、松原湖の水を利用した八那池発電所をつくり、佐久地方の家々に初めて電灯をともす
東信電気重役就任後には千曲川にいくつかの発電所を建設し東京に電力を供給

3 長野電鉄設立
  佐久鉄道の開業に際し相談役に就任 小諸から小海まで開通させる
  日本海と太平洋を結ぼうと考えていた藤平は佐久鉄道が持っていた信越線の屋代―須坂間の権利を譲り受け北信での鉄道建設に着手。屋代から須坂、中野、木島平へと延伸する。人口の多い長野市への延伸を目指し、千曲川に鉄橋を架けた。
  1926年(大正15)には長野電鉄株式会社を設立。須坂と長野市を結ぶ鉄道を合併し、蒸気機関車から電車への切り替えにも着手する。
  1927年(昭和2)には湯田中まで開通し、北信地方の大きな町と温泉地を結ぶ重要な鉄道となった。

4 志賀高原の命名
  長野電鉄の乗客を増やすためには温泉や高原に誘客をすることが大切だと考えた藤平は、湯田中温泉、上林温泉に遊園地やプールのついたホテルを建設。
更に平穏村(現山ノ内町)の和合会が所有する土地(200万㎡)を無償で借り入れ、観光地の建設に着手。1929年(昭和4)にスキー場を建設。上林温泉からスキー場へ道路を開き、バスを走らせたことにより高原に訪れる人が増える。
生まれ故郷の志賀村にちなみ一帯を「志賀高原」と命名した。


(略歴)

1871 志賀村(現在の佐久市志賀)に神津清三郎の次男として生まれる

     志仁学校 岩村田学校 慶應義塾卒

     東京電灯入社 23歳の時に両親の逝去をきっかけに帰郷

1900 神津合名会社設立(銀行)

1911 信州人参同業組合設立 同組合長就任

1912 長野電灯 取締役就任

1914 佐久鉄道開業 相談役就任

1917 東信電気 重役就任

1926 長野電鉄株式会社を設立

1929 平穏村(現山ノ内町)にスキー場を建設。後に志賀高原と命名
 

(関連リンク)神津 藤平 | 佐久市ホームページ